マイトレーヤは何を伝えているのか? ―霊的教訓―
霊性(スピリチュアリティ)
霊的という言葉はいわゆる宗教的な事柄を指すものではありません。人間を何らかのかたちの(肉体的、情緒的、知的、直観的、社会的)成長に向けるすべての活動は、もしそれがその人を現在の状態からさらに向上させるものであるならば、本質的に霊的な性質のものです。
来るべき時代に私たちは意識の転換を行い、「霊的」という定義の中に、単に宗教的、内的生活の面のみではなく、私たちの存在のすべての面を含めなければなりません。私たちの機構のすべてが、政治的、経済的なものも含め、人類の内的一体性に基づき、現実を反映するものでなければなりません。
マイトレーヤは次のように言っています。「わたしは新しい宗教を創始するために来たのではない。私は自己(真我)実現の術を教えに来たのである。これはイデオロギーでも宗教でもなく、あらゆる宗教の人々に、そして宗教を持たない人々にも、すべてに益するものだ」と。
自己(真我)実現
私たちは真我であり、すなわち不滅の存在であり、私たちが経験する困難や苦難は真我でないところのものと自分を同一認することから生じるのです。
マイトレーヤは言われます、「自分自身に『私は誰か』と問いなさい。そうすれば肉体や心や生気と自分を同一認している自分に気づくでしょう」と。「真我のみが大切である。私たちが心に正直であり、生気に誠実であり、肉体に正しい食物を与え、無執着を実践するならば、私たちは自分の真我を知るだろう」とマイトレーヤは言われます。
もし私たちが裡なる真我を体験して、自分が心(マインド)や生気(スピリット)や肉体とはまったく分離した不滅の存在であることを知るようになるとき、私たちはこれらの主の宮殿(心、生気、肉体)を創造的に、認識をもって利用することを学ぶでしょう。真我を知るとき、他の人々を目覚めさせることができるのです。
心の正直さ
心の正直さというのは、マイトレーヤによれば、単に嘘をつかないこと、私たちがいう“正直である”ということを意味しているのではありません。もちろんそれも含まれますが、本質的には条件付けられていない心を意味しています。様々なイデオロギーに条件付けられていない心(マインド)、それ自体に正直な心を持つということは、一瞬、一瞬、自由でオープンな人生を経験することです。それ自体を完全に、純粋に、自然に、条件付けなしに表現することです。条件付けられていない心のみが自由を知ることができます。つまり、それは真実な言動と思考を行う能力ということになります。
生気の誠実さ
マイトレーヤが言われる生気の意味とは、エネルギーの総体、つまり、アストラル/感情エネルギーとエーテルエネルギー、生命の気、個人のパワー、あるいは“シャクティ”をすべて含めたものです。
生気(スピリット)の誠実さというのは、リアリティー(実体)を歪曲なしに見ることを意味します。すべての人間が、多かれ少なかれ、幻覚(イリュージョン)の中で生活しています。その幻覚が物質界にあるときには、それをマヤと呼び、幻覚が感情、アストラル界にあるときはグラマーと呼びます。幻覚がメンタル界にあるときには、イリュージョンと呼びます。しかしこれらは皆、イリュージョンの異なった側面です。生気(スピリット)に誠実であるということは、グラマーなしに情緒的経験に反応することを意味します、つまり情緒感情界のグラマー(幻覚)から自由であることです。人生経験における通常のあり方としては率直で、開放的で、自然で、包括性を持つこと。つまり全体的に誠実な人間であることです。
無執着
無執着とは、人が自分を肉体(物質面)と心(思考面)と生気(エネルギーや力の面)と同一認しなくなっていく過程です。あなたが心の正直さ、生気の誠実さを持つようになればなるほど、ますます無執着になれるのです。そして無執着になればなる程、あなたの心は、ますます条件付けられなくなり、アストラル界のグラマーに条件付けられることも少なくなります。これら三つの面(心の正直、生気の誠実、無執着)は一緒に働きます。
無執着ということは、関心を持たないことではありません。関心を持っており、しかも同時に、それらの関心が活動を妨げることなしに機能できることです。例えば、非常に関心の高い人々、マザー・テレサのような人々が持っているものは関心であり、奉仕したいという心(ハート)からの反応であり、そして同時に奉仕を実施することができるだけの無執着な心なのです。したがって、苦難を直視し、それらに背を向けずにそれを自分自身の苦難として非常に強力に体験するために奉仕するのですが、それと同時に、自分の感情的な反応にとらわれないのです。多くの人は自分の感情を抑圧しますが、感情を抑圧することは感情に溺れるのと同じくらい悪いことです。感情に溺れず、また押さえつけることなく、ただそれを見ること、それと自分を同一認しないことを学ばなければなりません。
正しい関係
無害であることが基本的な人間関係であり、これは非常に実際的な機能を持ちます。無害であることは単なる良いアイデアというだけではなく、絶対必要なことであり、そうでなければ私たちは自分自身を害することになるでしょう。私たちのすべての思考と行為が原因を始動させ、これらの原因から発する結果が、良きにつけ、悪しきにつけ、私たちの人生をつくります。苦痛なものであれ、快いものであれ、私たち自身が、単に過去世においてのみではなく、先週、昨日、今この瞬間、一瞬一瞬、自分の思考と行動を通して、自分自身の人生の経験を創始しているのです。それは役に立つものであることも、非常に破壊的であることもあり得ます。もし破壊的であれば、自分自身にとってのみではなく、社会にとっても破壊的です。
正しい人間関係ということは、私たちがお互いを害することなく共に生き、各人の存在(裡なる神)が、それぞれの方法でそれぞれの時期に、誰からの干渉もなしに、成長し開花し、顕示されるようにすることです。
あなた自身のままでありなさい
マイトレーヤは言われます。「あなたはあなた自身のままでありなさい。人の後に従ってはいけない。自分自身に対する尊敬の念、尊厳を他人に放棄してはならない。もし本来の自分ではなく他人に従うならば、自分の輝きを失い、個性の光を反映することはできない。その光なしには、人生における進歩はない」と。
さらにマイトレーヤは、「わたしを崇拝してはならない。もしわたしを崇拝するならば、あなたはあなた自身を低めようとしている。わたしはこれを欲しない。わたしはあなたに同等であって欲しい。あなたは至高なる存在の閃光である。あなたはわたしよりも低いと考えてはならない」と言われます。


